2016年3月28日月曜日

歴史を学ぶという事は

 歴史を学ぶという事は、想いを文字に残す行為のその先にあるのかもしれない。
 過去を知るには、書物を読み古の流れを実感することが第一手であり、最重要の基本である(近現代史はこの限りではない)。
 文書を読み、心中に往時の風景を想像してみる。そうすることで始まるのは、知りたいと思っている人物への心的接近である。この心的接近というのは、文献によって知りえた情報を基に、当該人物を想像によって心中に産みだし(想造)[i]、更に情報を加えていくことで、人物像のブラッシュアップをかけていくということだ。ここで注意しなければならないのは、心的接近はあくまでも自身の主観によってなされるという点だ。主観は強烈なインパクトを自身に残す。一度心の中にできあがってしまうと、なかなかに変更できないからだ。主観の形成は、日々の生活で絶えず行われる。暮らしの中で見聞きした情報が、主観の構成要素だ(女子会での会話、飲み屋での愚痴、ニューストピックス)。じっくりと、しかし確実に自分の心中に、対象の虚像が作られていく。
 ここで虚像という表現を使ったのは、想造によって産みだされる人物像は、当然、実像とはある程度かけ離れているからだ。

 このように、想造によって虚像を作り、心的接近をなすことで対象の人物をより知ることができる。だが、この虚像は主観によるものだ。だからこそ、主観を形成する要素は客観的事実でなければならない。それらを取捨選択して虚像を造るのだ。
 では、何をもって客観的事実というのか。端的に言えば、過去に複数人が肯定した事象の記録、であろうか。ただ1人が確認した事実よりも、100人、1000人が確認した事実の方が、より確かな事実である。それだけ多くのクロスチェックを経たからだ。
一方で、この確固たる事実の是非は、一次史料が決めるわけではない。一次史料というのは、主として当事者もしくはその周辺が書く。「歴史は勝者が作る」とはよく言ったもので、当事者たちは自分に都合の良い事を書く場合がほとんどだ。だからこそ、後世の歴史研究家たちは、それらを精査して別の一次史料と並行してチェックし、事実の是非を判定する。そうして出来あがった二次史料は、時代が下るにしたがって増えていく。言うなれば、一次史料から一貫して言われてきている事実が、客観的事実なのだ。

現代に生きる歴史研究家は、そうして継承されてきた客観的事実を取捨選択し、自分なりの意見を世に公開する。それらは批判され淘汰されることもあれば、肯定的に受け取られ、また次の世代に送られることもある。
 以上とりとめもなく書いてきたが、歴史を学ぶという事は、想いを記録し、それらを後の時代で批判検討し、後世に歴史を伝えることなのだ。


[i] 筆者による造語

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