2016年3月27日日曜日

至上権の変遷

絶対主義というのは、とどのつまり官僚制王制である。それも中央(宮廷)に近づくほど、制度的結びつきが強くなる。宮廷の廷臣=官僚が国家のメインフレームを構築する。その仕組みは上意下達である。つまり、国王の意志を官僚(国家行政)が実行する。主体が国王の意志であり、客体が官僚である。臣民はその影響を受ける存在でしかなかったろう。
 ところで、私は絶対主義の必要条件として、「ローマ教皇権からの脱却」を挙げている。その理由は、端的に言うと君主を一国家における最上の権威とするためだ。王と言っても元々は貴族なので、権威というものが欠如している。その権威を与えるのが、ヨーロッパ世界の普遍的信仰・ローマカトリックであり、その頂点に立つ教皇であった。教皇には、元貴族に権威を与える利点があった。それは神聖ローマ皇帝の例を見ても分かる。当時の教皇は、西ヨーロッパキリスト教世界の守護を体現してくれる―強い軍事力を持つ―俗世の君主を必要としていた。いわば、お墨付きを与えることで俗世の軍事力を手に入れようとしたのである。ところが、この関係性は君主にとっては迷惑以外のなにものでもなく、君主と教皇は徐々に対立し始める。
 そして16世紀に入ると、君主権は教皇権を無視して領土内の至上権となっていく。この至上権は、時代をもう数十年下ると、王権神授説として理論化され、イングランドのジェイムズ1世によって臣民に示される。臣民が相手というのが、この理論の妙である。中世以来、王侯に従順と言えば従順であった臣民に、自分たちの正統性を弁明する王権神授という大義名分を説いたのである。それは、君主にとって、もはや臣民が大人しいものではないという危機感を与える時代に入っていた表れであろう。王権神授説は、君主が臣民にあてた「上からの弁明書」であった。君主の存在意義は、臣民に弁明せざるを得ないほどに追い込まれていた。
 辞書だと絶対主義の構成要素に王権神授説を挙げているが、それは拡大解釈だ。実際には「ローマ教皇権からの脱却」というように、君主権の優位を示すだけで良い。王権神授説というのは、統治の頂点に立てなくなりつつある王権が、最後の気力を振り絞ってつくりあげた防衛理論であり、至上権の形骸である。

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