ヘンリ8世という王は、政治に自らの労力を向けることを驚くほど嫌った。勿論、歴史を見ると、上に立つ人間というのは頂の上にただ存在するだけで、精力のほとんどを遊興に向ける場合が多い。ヘンリもその類の人物だった。彼は政治のほぼ一切を官僚に丸投げしたのである。
キャサリンとの離婚交渉をカトリックに対して行ったトマス・ウルジー、対外貿易利権保護に動いたトマス・モア、議会を使って宗教改革を合法的に進めたトマス・クロムウェル。ヘンリの統治期に行われた政治行動のほぼ全てが、官僚らの手によって行使され、王はそれを上から監督しただけだ。その推論に至った時、私は日本のある為政者を思い出した。
この日本にかつて織田信長という英傑がいた。信長はヘンリが亡くなって3年後に生まれるのだが、両者にはある共通点がある。それは、「苛烈な印象を残した暴君じみた人物」という点だ。両者とも逆らう者は容赦なく処刑して、古い伝統を持つ宗教と、はたから見れば傍若無人な態度で向き合った(ヘンリの場合は事情が違うが)。
では、2人の差異は何か。それは「政治行動を直接為したか否か」である。
信長は為した。彼は、全盛期のほとんどの戦いで常在戦場を貫いた。信長は先頭に立って戦ったからこそ、室町幕府や大大名の反感をその身に受け、最後は部下・明智光秀の裏切りに倒れた。
一方のヘンリは、官僚に丸投げしたのである。宗教改革という、彼の統治の大一番でさえ議会に活路を見出したし、その実務的調整作業をクロムウェルに一任した。ヘンリはカーテンの内側に坐し、外に待機する官僚に要望を伝えて代理実行させた。だからこそ、トマス・モアやクロムウェルといった大法官は、ヘンリよりも恨まれるけっかとなったのだ。また、官僚らは政敵の足を引っ張ることで、王と政敵とを引き離し、派閥争いを勝ち残っていった。
信長はヘンリの持っていたような官僚制を築くことができたであろうか。信長の合理性は歴史が証明している。その合理性と彼の勢力を併せて考えれば、可能であったろう。この仕組みを使い、直臣に権限を委譲しさえすれば、信長自らが恨まれることは、かなり減ったはずだ。もっとも信長の性格からして、近代官僚機構の軸である精神的頂点にはなれなかったろうし(精神的頂点についてはまたの機会に説明したい)、戦国の風土は官僚制を受け付けなかったに違いない。
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