私は、ある一時期イングランドの歴史を、自分の興味が及ぶ範囲だけで調べてきた。中でも、特に重点を置いて調べてきたのは、テューダー朝2代目・ヘンリ8世(1491年-1547年)である。
テューダー朝というのは、30年に渡りイングランドで繰り広げられた王位継承内乱・バラ戦争(1455年-1485年)の果てに生まれた王朝である。ヘンリ8世は、その開祖・ヘンリ7世の二男として生まれた。私は、この2代目と絶対主義という政治概念の関連付けを調べてきた。
断っておくが、私は歴史学を専攻してきたわけではない。只、歴史というものに興味がある、純粋に趣味としての「研究」なのである。だから、専門家(もしくはその道に進み始めた人)にとっては、物足りないどころか論理的にも破綻した私見が、これからの記事の中に見られると思うが、お許しいただきたい。
さてそれでは、歴史―全般、細部問わず―について、これから書き記していきたい。
そもそも、ヘンリ8世に初めて興味を覚えたのは、高校の世界史の授業だった。彼が出てくるのは、宗教改革の節なのだが、ここではルターやカルヴァンが登場し、各自の持つ信仰に基づいて、ヨーロッパ最大の宗派・ローマカトリックと対立していく様が述べられている。
ヘンリはイングランド宗教改革の立役者として紹介されるが、ルターやカルヴァンと比べ、彼は異質だ。信仰とは無関係に見える政治的動機〈ローマ教皇からの主権獲得〉を叶えるために、改革を臣下に指示していく。それも、彼が改革を志向した根幹は、愛人と結婚するために妃と離婚したいとヘンリが考えた点にある。
この改革の異質性は、ひとえにそれが政治改革だったことにある。ヘンリが離婚を願っていたキャサリン・オブ・アラゴンは、神聖ローマ皇帝・カール5世の縁者であった。そしてカールは、離婚の成否を決定するローマ教皇を支配下に置いていた。即ち、ヘンリとキャサリンとの離婚は、カトリック教義上の問題以前に、ヨーロッパの政治上の問題として、不可能であったのだ。だからこそ、ヘンリは離婚成立をローマカトリックでなく、イングランド国内(議会)で成した。その結果として、後世はイングランド宗教改革を政治改革と見做すことになったのだ。
では何故イングランドの民は、この異質な宗教改革を受け入れたのか。その答えは、大きく分けて2つだ。まず、カトリックの腐敗に憤っていたためだ。当時の聖職者たちは、ルターが改革を志した要因にあるように、「贖宥状を買うことによって、罪は赦される」と民たちに告げ、その金で私腹を肥やしていた。イングランドでは、中産市民を中心に「反聖職者主義」が広まり、既成の宗教権威は最早畏敬の対象ではなくなっていた。だからこそ、ヘンリの宗教改革は全否定されることはなかったのである。
もう1つの答えは、イングランドが持つ地理的特徴にある。ローマを中心と考えた時、ブリタニア(イングランド)はヨーロッパの辺境に位置している。4世紀ごろには、ローマ帝国から伝播したキリスト教は、かの地に定着していたが、その後ローマ帝国の公的な影響力は減退していき、かの地独自の文化も含めながら、キリスト教は根付いていった。こうした独特な発展ができた理由は、ブリタニアがヨーロッパの辺境に位置していたからだ。ローマの直接的な統治を免れ得たからこそ、数世紀後には普遍的宗派であるカトリックから脱却する下地ができあがったのだ。言わば、ローマから見たブリテンという異質な土地ができあがったということになる。
異質な土地で起きた異質な改革は、国王の存在を神聖化する起点となった。これが無知な国王の「王権神授」理論に繋がってのである。
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