2016年3月31日木曜日

モアについて

 国家の統制によって保障された幸福は、本当の幸福と言えるのか。トマス・モアが書いた『ユートピア』を読んだ感想である。どうもモアは、学問としての政治と実際の政治との狭間を行ったり来たりして、ついぞその両立に失敗して、断頭台に消えていったような気がしてならない。
 『ユートピア』は、二部構成になっている。その本論は第二部で詳述されている。即ち、ユートピアという理想国家の素晴らしさが、そこで延々と書かれているのである。当時の知識人がどれほどこの理想国家に賛意を示したか知らないが、21世紀に生きる私としては、ユートピアは「明るい刑務所」にしか思えなかった。それは、全国民が暮らしのリズムを管理されている・・・私的財産が認められない・・・旅行先でも普段と同じ仕事をしなければならない、などという箇所に表れている。
 もっとも今回私が注目したいのは、第一部である。この部では、モア本人とヒスロデイという架空の哲学者が、哲学者と政治について語っている。
 モアは、ヒスロデイの持つ豊富な知識を宮廷への仕官によって生かすべきだと勧める。ところが、ヒスロデイは廷臣たちが君主の顔色ばかりを伺うおべっか使いだとして、君主も平和より戦争を好んでいると断じる。君主が真に哲学を重んじる人物でなければ、哲学者が廷臣になっても無意味だと、ヒスロデイは考えている。
 第一部での大まかな流れは、知識豊富な哲学者をモアが政治の道に向けようとしている点である。私は、ここにモア自身の葛藤を見る。この本が書かれた時、モアはヘンリ8世の名代でブリュージュへ向かい、通商交渉を行っている。モアはロンドン市民の代表団の一員なのだが、ヘンリから宮廷で直臣になるよう誘われている。まさに、作中におけるヒスロデイである。通常ならば、ヒスロデイの考えは、現実のモアの考えだと捉える。だが、モアはこの後宮廷入りしている。
 更に、モアは宮廷入りを半ば予見しているような文章を、第一部に書いている。それは、自分が(外部から)要望されている役割を演じきる現実的な哲学の実践をしていくべきだと、言っている箇所だ。
 モアは、哲学者としての自分が政治の場で生きられないことを恐れつつも、その場に立つことを夢見ていたのではないだろうか。彼の家は政治家一族だった。父親はロンドン市長にまでなっている。モア自身は、聖職者を志していたが、自分の欲心を捨て去ることはできないと痛感して、その道に進むことを放棄している。聖職者の道を絶ったモアにとって、残された道は政治家になることだったのだろう。だからこそ、その葛藤を『ユートピア』第一部に書き連ねたのではないか。
 この葛藤には、人文主義者トマス・モアの性格が表れているのだと思うが、それが人文主義とどう関係するのかについては、次回書いていきたい。
 私がここで書きたかったのは、モアの葛藤の正体なのだが、どうもそれは明晰に論じられる類のものではなかったらしい。

*参考文献
トマス・モア 平井正穂訳『ユートピア』(2013、岩波文庫)

2016年3月29日火曜日

大学講義は無駄か

 前回の投稿で、客観的事実の取捨選択について触れた。この方法を、歴史研究を通じて学んだのは、真に得難きものであった。というのも、複数の事実を取捨選択し、推論を構築するというのは、一般社会でも、例えば自らの仕事上での課題の解決にも資するからだ。
 こういったやり方をじっくりと身に付けられるのは、やはり大学・専門学校ではないか。ここでは、大学を主として語りたい。というのも、専門学校の詳しい実情をよく知らないからだ。

 思うに、大学において、社会ですぐに実践できる実学(経済学部なら簿記など)を重視せよという近年の風潮は、目先の利益にとらわれすぎである。確かに、企業の即戦力となる実学の類を学んでほしいというのは、企業の持つ性質からしてもっともなことである。しかし、それを大学教育の中核に据えるというのは、筋違いだろう。
 大学とは、一個人の思考の鋳型を造り上げる空間なのだ。社会は、その鋳型を通じて課題を乗り越えていく場だ。よって、現行の大学教育は長い目で見れば、企業に資する最も基礎的な能力(思考の鋳型、その活用法)を育て上げている。
 長いスパンで成長し続ければ、道は開けてくる。私は常々そう考えてきた。先日、ある本を読んで、私はこの考えをその著者に賛成された気がした。ライフネット生命の代表取締役会長兼CEOの出口治明氏が書いた『働く君に伝えたい「お金」の教養』(2016、ポプラ社)という本だ。自分の好きなことを続けたり、学びたいことを学び続けたりすることで、自分の価値を上げれば、それが成功へと結びつく可能性を、出口氏は説く。
 そうなのだ。他人から急かされ外圧にさらされる成長は、身につかない。一瞬で身体から抜け落ちる。無駄かもしれない、遠回りかもしれない道でも、それが自分の信じた道ならば進み続けてみるといい。その途中で出会った人や出来事はきっと自分の財産になる。その出会いは、無駄ではないから。

 企業経営陣はどうか5年、10年先のエース社員を雇うという、「人間への長期投資」の意味合いで、新卒学生を選考し、採用していってほしい。
 そして学生諸君は大学を出ても、教養によって自らを高める「自分への投資」[i]を怠らないでほしい。


[i] 出口治明『働く君に伝えたい「お金」の教養』(2016、ポプラ社)p.196

2016年3月28日月曜日

歴史を学ぶという事は

 歴史を学ぶという事は、想いを文字に残す行為のその先にあるのかもしれない。
 過去を知るには、書物を読み古の流れを実感することが第一手であり、最重要の基本である(近現代史はこの限りではない)。
 文書を読み、心中に往時の風景を想像してみる。そうすることで始まるのは、知りたいと思っている人物への心的接近である。この心的接近というのは、文献によって知りえた情報を基に、当該人物を想像によって心中に産みだし(想造)[i]、更に情報を加えていくことで、人物像のブラッシュアップをかけていくということだ。ここで注意しなければならないのは、心的接近はあくまでも自身の主観によってなされるという点だ。主観は強烈なインパクトを自身に残す。一度心の中にできあがってしまうと、なかなかに変更できないからだ。主観の形成は、日々の生活で絶えず行われる。暮らしの中で見聞きした情報が、主観の構成要素だ(女子会での会話、飲み屋での愚痴、ニューストピックス)。じっくりと、しかし確実に自分の心中に、対象の虚像が作られていく。
 ここで虚像という表現を使ったのは、想造によって産みだされる人物像は、当然、実像とはある程度かけ離れているからだ。

 このように、想造によって虚像を作り、心的接近をなすことで対象の人物をより知ることができる。だが、この虚像は主観によるものだ。だからこそ、主観を形成する要素は客観的事実でなければならない。それらを取捨選択して虚像を造るのだ。
 では、何をもって客観的事実というのか。端的に言えば、過去に複数人が肯定した事象の記録、であろうか。ただ1人が確認した事実よりも、100人、1000人が確認した事実の方が、より確かな事実である。それだけ多くのクロスチェックを経たからだ。
一方で、この確固たる事実の是非は、一次史料が決めるわけではない。一次史料というのは、主として当事者もしくはその周辺が書く。「歴史は勝者が作る」とはよく言ったもので、当事者たちは自分に都合の良い事を書く場合がほとんどだ。だからこそ、後世の歴史研究家たちは、それらを精査して別の一次史料と並行してチェックし、事実の是非を判定する。そうして出来あがった二次史料は、時代が下るにしたがって増えていく。言うなれば、一次史料から一貫して言われてきている事実が、客観的事実なのだ。

現代に生きる歴史研究家は、そうして継承されてきた客観的事実を取捨選択し、自分なりの意見を世に公開する。それらは批判され淘汰されることもあれば、肯定的に受け取られ、また次の世代に送られることもある。
 以上とりとめもなく書いてきたが、歴史を学ぶという事は、想いを記録し、それらを後の時代で批判検討し、後世に歴史を伝えることなのだ。


[i] 筆者による造語

2016年3月27日日曜日

至上権の変遷

絶対主義というのは、とどのつまり官僚制王制である。それも中央(宮廷)に近づくほど、制度的結びつきが強くなる。宮廷の廷臣=官僚が国家のメインフレームを構築する。その仕組みは上意下達である。つまり、国王の意志を官僚(国家行政)が実行する。主体が国王の意志であり、客体が官僚である。臣民はその影響を受ける存在でしかなかったろう。
 ところで、私は絶対主義の必要条件として、「ローマ教皇権からの脱却」を挙げている。その理由は、端的に言うと君主を一国家における最上の権威とするためだ。王と言っても元々は貴族なので、権威というものが欠如している。その権威を与えるのが、ヨーロッパ世界の普遍的信仰・ローマカトリックであり、その頂点に立つ教皇であった。教皇には、元貴族に権威を与える利点があった。それは神聖ローマ皇帝の例を見ても分かる。当時の教皇は、西ヨーロッパキリスト教世界の守護を体現してくれる―強い軍事力を持つ―俗世の君主を必要としていた。いわば、お墨付きを与えることで俗世の軍事力を手に入れようとしたのである。ところが、この関係性は君主にとっては迷惑以外のなにものでもなく、君主と教皇は徐々に対立し始める。
 そして16世紀に入ると、君主権は教皇権を無視して領土内の至上権となっていく。この至上権は、時代をもう数十年下ると、王権神授説として理論化され、イングランドのジェイムズ1世によって臣民に示される。臣民が相手というのが、この理論の妙である。中世以来、王侯に従順と言えば従順であった臣民に、自分たちの正統性を弁明する王権神授という大義名分を説いたのである。それは、君主にとって、もはや臣民が大人しいものではないという危機感を与える時代に入っていた表れであろう。王権神授説は、君主が臣民にあてた「上からの弁明書」であった。君主の存在意義は、臣民に弁明せざるを得ないほどに追い込まれていた。
 辞書だと絶対主義の構成要素に王権神授説を挙げているが、それは拡大解釈だ。実際には「ローマ教皇権からの脱却」というように、君主権の優位を示すだけで良い。王権神授説というのは、統治の頂点に立てなくなりつつある王権が、最後の気力を振り絞ってつくりあげた防衛理論であり、至上権の形骸である。

2016年3月21日月曜日

ヘンリ8世と織田信長

 ヘンリ8世という王は、政治に自らの労力を向けることを驚くほど嫌った。勿論、歴史を見ると、上に立つ人間というのは頂の上にただ存在するだけで、精力のほとんどを遊興に向ける場合が多い。ヘンリもその類の人物だった。彼は政治のほぼ一切を官僚に丸投げしたのである。
 キャサリンとの離婚交渉をカトリックに対して行ったトマス・ウルジー、対外貿易利権保護に動いたトマス・モア、議会を使って宗教改革を合法的に進めたトマス・クロムウェル。ヘンリの統治期に行われた政治行動のほぼ全てが、官僚らの手によって行使され、王はそれを上から監督しただけだ。その推論に至った時、私は日本のある為政者を思い出した。
 
 この日本にかつて織田信長という英傑がいた。信長はヘンリが亡くなって3年後に生まれるのだが、両者にはある共通点がある。それは、「苛烈な印象を残した暴君じみた人物」という点だ。両者とも逆らう者は容赦なく処刑して、古い伝統を持つ宗教と、はたから見れば傍若無人な態度で向き合った(ヘンリの場合は事情が違うが)。
 では、2人の差異は何か。それは「政治行動を直接為したか否か」である。
 信長は為した。彼は、全盛期のほとんどの戦いで常在戦場を貫いた。信長は先頭に立って戦ったからこそ、室町幕府や大大名の反感をその身に受け、最後は部下・明智光秀の裏切りに倒れた。
 一方のヘンリは、官僚に丸投げしたのである。宗教改革という、彼の統治の大一番でさえ議会に活路を見出したし、その実務的調整作業をクロムウェルに一任した。ヘンリはカーテンの内側に坐し、外に待機する官僚に要望を伝えて代理実行させた。だからこそ、トマス・モアやクロムウェルといった大法官は、ヘンリよりも恨まれるけっかとなったのだ。また、官僚らは政敵の足を引っ張ることで、王と政敵とを引き離し、派閥争いを勝ち残っていった。
 
 信長はヘンリの持っていたような官僚制を築くことができたであろうか。信長の合理性は歴史が証明している。その合理性と彼の勢力を併せて考えれば、可能であったろう。この仕組みを使い、直臣に権限を委譲しさえすれば、信長自らが恨まれることは、かなり減ったはずだ。もっとも信長の性格からして、近代官僚機構の軸である精神的頂点にはなれなかったろうし(精神的頂点についてはまたの機会に説明したい)、戦国の風土は官僚制を受け付けなかったに違いない。

 以上を踏まえると、官僚らがヘンリ8世の要望を叶える形で繰り広げた派閥争いは、ヘンリ自身に対しても自己防衛という面で有利に働いたに違いない。

2016年3月20日日曜日

異質なイングランド

私は、ある一時期イングランドの歴史を、自分の興味が及ぶ範囲だけで調べてきた。中でも、特に重点を置いて調べてきたのは、テューダー朝2代目・ヘンリ8世(1491-1547年)である。
テューダー朝というのは、30年に渡りイングランドで繰り広げられた王位継承内乱・バラ戦争(1455-1485年)の果てに生まれた王朝である。ヘンリ8世は、その開祖・ヘンリ7世の二男として生まれた。私は、この2代目と絶対主義という政治概念の関連付けを調べてきた。
断っておくが、私は歴史学を専攻してきたわけではない。只、歴史というものに興味がある、純粋に趣味としての「研究」なのである。だから、専門家(もしくはその道に進み始めた人)にとっては、物足りないどころか論理的にも破綻した私見が、これからの記事の中に見られると思うが、お許しいただきたい。
さてそれでは、歴史―全般、細部問わず―について、これから書き記していきたい。

 そもそも、ヘンリ8世に初めて興味を覚えたのは、高校の世界史の授業だった。彼が出てくるのは、宗教改革の節なのだが、ここではルターやカルヴァンが登場し、各自の持つ信仰に基づいて、ヨーロッパ最大の宗派・ローマカトリックと対立していく様が述べられている。
 ヘンリはイングランド宗教改革の立役者として紹介されるが、ルターやカルヴァンと比べ、彼は異質だ。信仰とは無関係に見える政治的動機〈ローマ教皇からの主権獲得〉を叶えるために、改革を臣下に指示していく。それも、彼が改革を志向した根幹は、愛人と結婚するために妃と離婚したいとヘンリが考えた点にある。
 この改革の異質性は、ひとえにそれが政治改革だったことにある。ヘンリが離婚を願っていたキャサリン・オブ・アラゴンは、神聖ローマ皇帝・カール5世の縁者であった。そしてカールは、離婚の成否を決定するローマ教皇を支配下に置いていた。即ち、ヘンリとキャサリンとの離婚は、カトリック教義上の問題以前に、ヨーロッパの政治上の問題として、不可能であったのだ。だからこそ、ヘンリは離婚成立をローマカトリックでなく、イングランド国内(議会)で成した。その結果として、後世はイングランド宗教改革を政治改革と見做すことになったのだ。
 では何故イングランドの民は、この異質な宗教改革を受け入れたのか。その答えは、大きく分けて2つだ。まず、カトリックの腐敗に憤っていたためだ。当時の聖職者たちは、ルターが改革を志した要因にあるように、「贖宥状を買うことによって、罪は赦される」と民たちに告げ、その金で私腹を肥やしていた。イングランドでは、中産市民を中心に「反聖職者主義」が広まり、既成の宗教権威は最早畏敬の対象ではなくなっていた。だからこそ、ヘンリの宗教改革は全否定されることはなかったのである。
 もう1つの答えは、イングランドが持つ地理的特徴にある。ローマを中心と考えた時、ブリタニア(イングランド)はヨーロッパの辺境に位置している。4世紀ごろには、ローマ帝国から伝播したキリスト教は、かの地に定着していたが、その後ローマ帝国の公的な影響力は減退していき、かの地独自の文化も含めながら、キリスト教は根付いていった。こうした独特な発展ができた理由は、ブリタニアがヨーロッパの辺境に位置していたからだ。ローマの直接的な統治を免れ得たからこそ、数世紀後には普遍的宗派であるカトリックから脱却する下地ができあがったのだ。言わば、ローマから見たブリテンという異質な土地ができあがったということになる。

 異質な土地で起きた異質な改革は、国王の存在を神聖化する起点となった。これが無知な国王の「王権神授」理論に繋がってのである。