驚いたことに、前回の投稿から1年以上が過ぎた。
さらに驚くべきことに、前回私は人文主義とトマスモアの性格について、
次回に何らかのアプローチを仕掛ける、と結んでいる。
すっかり忘れてしまっていた。投稿までここまで期間が開いた理由は、
個人的な事情である。ご容赦いただきたい。
また、人文主義についてだが、これは忘れていたわけではない。
だが、この15~16世紀の思想について調べれば調べるほど、自分の立ち位置が
分からなくなってきて、たな晒しの状態になってしまった。
こちらもご容赦いただきたい。
さて、この記事では"時代によって解釈が変わる歴史"といったものについて、
今回もとりとめなく書いていきたい。
解釈が変わる歴史。
歴史を学ぶ事に一家言お持ちの方々は、"そんな当たり前のことを"とお思いだろう。
時代、社会情勢によって歴史の解釈は、180度変わることがある。
昨日までの英雄が、今日には悪者になり、昨日までの悪者が、一転して英雄になる。
そんなことがまま起きる。
近年で言うと、主君を裏切り領地を奪おうとした武士が実は家内一の忠義者だった、
近代日本の創始者たちがテロリストだった、などであろうか。
時によって、過去の人物に対する評価が変わる。
これは当然のことだろう。
人間の感情は、絶えず揺れ動く。
それは一年、半年、ひと月、あるいは一時間で変わっていく。
そこに明確に定義された期間はない。
ではなぜ、時によって心が変わり、見方が変わるのだろうか?
言っておくが、私は人間の精神の専門家でもない。
なので、独断と偏見に基づく考えだと、予めご容赦いただきたい。
おそらく、変心というのは自らの内面にある恐れがもたらすのだろう。
人間は誰しもが何かしらの不安を抱きながら、日々を送る。
毎日を生きることに精一杯になり、明日のことはおろか、一年先、三年先の人生を
思い描くことに恐れを抱きながら、生活している人も多いだろう。
また過去に何かしらの栄光を味わった人間はこう思うに違いない。
「あの頃は良かった」と。
過去にすがり、いまと比較し、未来に対して徐々に希望を失っていく。
現代社会にそんな状況に置かれた人間が、いったいどれほどいるのか?
しかも、この現代は過分に情報があふれている。
情報の洪水の中で、人々は正しいか否かではなく、自分にとって都合が良いか悪いかで情報を取捨選択している。
その悪習慣は、ここ最近改められるようになりつつあるが。
そして、自分の置かれている状況によって、取捨選択する情報は変わり、その情報を基に、人々は自らの意見を形成する。
異なる情報によって、異なる見解を持った人々がSNS上でどんな対立を繰り広げているかは、皆さんの御覧の通りである。
彼らは今生きている世界、社会、国家、環境に、大なり小なり不安を抱えているからこそ、
だから、市井の人々の中には、今の苦しい環境から這い出ることができるならばと、
政治家が唱える強い国家に希望を抱くグループが形成され、
もう一方では、それを昭和の暗黒時代への回帰に受け取り、強硬に反対するグループが形成される。
そして、両者の間で、想像を絶する争いが勃発する。
ここで歴史解釈が突如としてその姿を垣間見せる。
あの頃は良かったとの思いが、七十年前、果ては百年前まで馳せて、その過去を再び現出させ、往時の栄光を
取り戻そうと、人々を突き動かす。歴史に名を残してきた人物と同じ行動をとろう、あるいは同じ思想を持とうと。
だが歴史に名を残してきた人物たちは、すでに善か悪かの審判を受けていることが多い。
その審判は、教育により市井に広められる。そして教育は政治が決める。特に全国民が受ける義務教育において政治の影響力は絶大であろう。
これは、いかなる政治家やそのシンパが否定しようと、すでに世間一般にとっては"周知の事実"である。
いわば、歴史の審判は、往時の権力者による政治の中で行われるのである。
という事は、大多数の人々にとって歴史の見方が変わる瞬間というのは、
時の為政者による歴史教育の方針転換がなされたその瞬間となる。
無論そうであろう。
市井に生きるほとんどの人々は、中学・高校で人生の中の歴史教育を終える。
ならば、為政者による歴史教育への介入がなされた時点で、いま歴史を学んでいる若者たちの歴史観点の核が、
それまで学んでいた者たちと変わるという事なのだ。
歴史の解釈が変わる瞬間とは、即ち「為政者が下した審判により、歴史の視覚が変更され、そこに、為政者が示す明るい未来・強い国家を支持して、今抱える不安や恐怖から脱却しようとするグループが賛意を示した瞬間」である。
では、学校教育を終えた瞬間に、我々は為政者が示す歴史の見方しかできなくなるのか。
そうではない。そんな事は断じてあってはならない。
我々が歴史を本当の意味で学ぶのは、学校教育を終えたその後である。
そこで同じ出来事でも、全く異なる意見を両方とも学んでほしい。その繰り返しを行うことで、自ずと自分の中で価値観が生まれ、何を信じるか、ひいてはどう生きるかが決まってくるだろう。
その時こそ、権力や時代の流れに左右されない自分の意見が完成されるのである。
歴史を学ぶことに抵抗がある人は、ならば現在の自分の位置を疑ってほしい。自らを疑い、自らと対極の位置にいる人に思いを馳せることで、今よりはほんの少しだけ客観的になることができると思う。
偉そうなことを長々と書いてきたが、要は他者・他方を見る力を養うことが、この濁りつつある社会には必要だと言いたかったのだ。その力を養うことで、例え時代によって歴史解釈が変わっても、自分の核となる解釈はそう簡単には変わらないだろう。
そしてこの力は、今の権力を支持するもの、支持しないものの双方に必要なのである。
歴史についての備忘録
2017年8月27日日曜日
2016年3月31日木曜日
モアについて
国家の統制によって保障された幸福は、本当の幸福と言えるのか。トマス・モアが書いた『ユートピア』を読んだ感想である。どうもモアは、学問としての政治と実際の政治との狭間を行ったり来たりして、ついぞその両立に失敗して、断頭台に消えていったような気がしてならない。
『ユートピア』は、二部構成になっている。その本論は第二部で詳述されている。即ち、ユートピアという理想国家の素晴らしさが、そこで延々と書かれているのである。当時の知識人がどれほどこの理想国家に賛意を示したか知らないが、21世紀に生きる私としては、ユートピアは「明るい刑務所」にしか思えなかった。それは、全国民が暮らしのリズムを管理されている・・・私的財産が認められない・・・旅行先でも普段と同じ仕事をしなければならない、などという箇所に表れている。
もっとも今回私が注目したいのは、第一部である。この部では、モア本人とヒスロデイという架空の哲学者が、哲学者と政治について語っている。
モアは、ヒスロデイの持つ豊富な知識を宮廷への仕官によって生かすべきだと勧める。ところが、ヒスロデイは廷臣たちが君主の顔色ばかりを伺うおべっか使いだとして、君主も平和より戦争を好んでいると断じる。君主が真に哲学を重んじる人物でなければ、哲学者が廷臣になっても無意味だと、ヒスロデイは考えている。
第一部での大まかな流れは、知識豊富な哲学者をモアが政治の道に向けようとしている点である。私は、ここにモア自身の葛藤を見る。この本が書かれた時、モアはヘンリ8世の名代でブリュージュへ向かい、通商交渉を行っている。モアはロンドン市民の代表団の一員なのだが、ヘンリから宮廷で直臣になるよう誘われている。まさに、作中におけるヒスロデイである。通常ならば、ヒスロデイの考えは、現実のモアの考えだと捉える。だが、モアはこの後宮廷入りしている。
更に、モアは宮廷入りを半ば予見しているような文章を、第一部に書いている。それは、自分が(外部から)要望されている役割を演じきる現実的な哲学の実践をしていくべきだと、言っている箇所だ。
モアは、哲学者としての自分が政治の場で生きられないことを恐れつつも、その場に立つことを夢見ていたのではないだろうか。彼の家は政治家一族だった。父親はロンドン市長にまでなっている。モア自身は、聖職者を志していたが、自分の欲心を捨て去ることはできないと痛感して、その道に進むことを放棄している。聖職者の道を絶ったモアにとって、残された道は政治家になることだったのだろう。だからこそ、その葛藤を『ユートピア』第一部に書き連ねたのではないか。
この葛藤には、人文主義者トマス・モアの性格が表れているのだと思うが、それが人文主義とどう関係するのかについては、次回書いていきたい。
私がここで書きたかったのは、モアの葛藤の正体なのだが、どうもそれは明晰に論じられる類のものではなかったらしい。
*参考文献
トマス・モア 平井正穂訳『ユートピア』(2013、岩波文庫)
2016年3月29日火曜日
大学講義は無駄か
前回の投稿で、客観的事実の取捨選択について触れた。この方法を、歴史研究を通じて学んだのは、真に得難きものであった。というのも、複数の事実を取捨選択し、推論を構築するというのは、一般社会でも、例えば自らの仕事上での課題の解決にも資するからだ。
こういったやり方をじっくりと身に付けられるのは、やはり大学・専門学校ではないか。ここでは、大学を主として語りたい。というのも、専門学校の詳しい実情をよく知らないからだ。
思うに、大学において、社会ですぐに実践できる実学(経済学部なら簿記など)を重視せよという近年の風潮は、目先の利益にとらわれすぎである。確かに、企業の即戦力となる実学の類を学んでほしいというのは、企業の持つ性質からしてもっともなことである。しかし、それを大学教育の中核に据えるというのは、筋違いだろう。
大学とは、一個人の思考の鋳型を造り上げる空間なのだ。社会は、その鋳型を通じて課題を乗り越えていく場だ。よって、現行の大学教育は長い目で見れば、企業に資する最も基礎的な能力(思考の鋳型、その活用法)を育て上げている。
長いスパンで成長し続ければ、道は開けてくる。私は常々そう考えてきた。先日、ある本を読んで、私はこの考えをその著者に賛成された気がした。ライフネット生命の代表取締役会長兼CEOの出口治明氏が書いた『働く君に伝えたい「お金」の教養』(2016、ポプラ社)という本だ。自分の好きなことを続けたり、学びたいことを学び続けたりすることで、自分の価値を上げれば、それが成功へと結びつく可能性を、出口氏は説く。
そうなのだ。他人から急かされ外圧にさらされる成長は、身につかない。一瞬で身体から抜け落ちる。無駄かもしれない、遠回りかもしれない道でも、それが自分の信じた道ならば進み続けてみるといい。その途中で出会った人や出来事はきっと自分の財産になる。その出会いは、無駄ではないから。
企業経営陣はどうか5年、10年先のエース社員を雇うという、「人間への長期投資」の意味合いで、新卒学生を選考し、採用していってほしい。
そして学生諸君は大学を出ても、教養によって自らを高める「自分への投資」[i]を怠らないでほしい。
2016年3月28日月曜日
歴史を学ぶという事は
歴史を学ぶという事は、想いを文字に残す行為のその先にあるのかもしれない。
過去を知るには、書物を読み古の流れを実感することが第一手であり、最重要の基本である(近現代史はこの限りではない)。
文書を読み、心中に往時の風景を想像してみる。そうすることで始まるのは、知りたいと思っている人物への心的接近である。この心的接近というのは、文献によって知りえた情報を基に、当該人物を想像によって心中に産みだし(想造)[i]、更に情報を加えていくことで、人物像のブラッシュアップをかけていくということだ。ここで注意しなければならないのは、心的接近はあくまでも自身の主観によってなされるという点だ。主観は強烈なインパクトを自身に残す。一度心の中にできあがってしまうと、なかなかに変更できないからだ。主観の形成は、日々の生活で絶えず行われる。暮らしの中で見聞きした情報が、主観の構成要素だ(女子会での会話、飲み屋での愚痴、ニューストピックス)。じっくりと、しかし確実に自分の心中に、対象の虚像が作られていく。
ここで虚像という表現を使ったのは、想造によって産みだされる人物像は、当然、実像とはある程度かけ離れているからだ。
このように、想造によって虚像を作り、心的接近をなすことで対象の人物をより知ることができる。だが、この虚像は主観によるものだ。だからこそ、主観を形成する要素は客観的事実でなければならない。それらを取捨選択して虚像を造るのだ。
では、何をもって客観的事実というのか。端的に言えば、過去に複数人が肯定した事象の記録、であろうか。ただ1人が確認した事実よりも、100人、1000人が確認した事実の方が、より確かな事実である。それだけ多くのクロスチェックを経たからだ。
一方で、この確固たる事実の是非は、一次史料が決めるわけではない。一次史料というのは、主として当事者もしくはその周辺が書く。「歴史は勝者が作る」とはよく言ったもので、当事者たちは自分に都合の良い事を書く場合がほとんどだ。だからこそ、後世の歴史研究家たちは、それらを精査して別の一次史料と並行してチェックし、事実の是非を判定する。そうして出来あがった二次史料は、時代が下るにしたがって増えていく。言うなれば、一次史料から一貫して言われてきている事実が、客観的事実なのだ。
現代に生きる歴史研究家は、そうして継承されてきた客観的事実を取捨選択し、自分なりの意見を世に公開する。それらは批判され淘汰されることもあれば、肯定的に受け取られ、また次の世代に送られることもある。
以上とりとめもなく書いてきたが、歴史を学ぶという事は、想いを記録し、それらを後の時代で批判検討し、後世に歴史を伝えることなのだ。
2016年3月27日日曜日
至上権の変遷
絶対主義というのは、とどのつまり官僚制王制である。それも中央(宮廷)に近づくほど、制度的結びつきが強くなる。宮廷の廷臣=官僚が国家のメインフレームを構築する。その仕組みは上意下達である。つまり、国王の意志を官僚(国家行政)が実行する。主体が国王の意志であり、客体が官僚である。臣民はその影響を受ける存在でしかなかったろう。
ところで、私は絶対主義の必要条件として、「ローマ教皇権からの脱却」を挙げている。その理由は、端的に言うと君主を一国家における最上の権威とするためだ。王と言っても元々は貴族なので、権威というものが欠如している。その権威を与えるのが、ヨーロッパ世界の普遍的信仰・ローマカトリックであり、その頂点に立つ教皇であった。教皇には、元貴族に権威を与える利点があった。それは神聖ローマ皇帝の例を見ても分かる。当時の教皇は、西ヨーロッパキリスト教世界の守護を体現してくれる―強い軍事力を持つ―俗世の君主を必要としていた。いわば、お墨付きを与えることで俗世の軍事力を手に入れようとしたのである。ところが、この関係性は君主にとっては迷惑以外のなにものでもなく、君主と教皇は徐々に対立し始める。
そして16世紀に入ると、君主権は教皇権を無視して領土内の至上権となっていく。この至上権は、時代をもう数十年下ると、王権神授説として理論化され、イングランドのジェイムズ1世によって臣民に示される。臣民が相手というのが、この理論の妙である。中世以来、王侯に従順と言えば従順であった臣民に、自分たちの正統性を弁明する王権神授という大義名分を説いたのである。それは、君主にとって、もはや臣民が大人しいものではないという危機感を与える時代に入っていた表れであろう。王権神授説は、君主が臣民にあてた「上からの弁明書」であった。君主の存在意義は、臣民に弁明せざるを得ないほどに追い込まれていた。
辞書だと絶対主義の構成要素に王権神授説を挙げているが、それは拡大解釈だ。実際には「ローマ教皇権からの脱却」というように、君主権の優位を示すだけで良い。王権神授説というのは、統治の頂点に立てなくなりつつある王権が、最後の気力を振り絞ってつくりあげた防衛理論であり、至上権の形骸である。
2016年3月21日月曜日
ヘンリ8世と織田信長
ヘンリ8世という王は、政治に自らの労力を向けることを驚くほど嫌った。勿論、歴史を見ると、上に立つ人間というのは頂の上にただ存在するだけで、精力のほとんどを遊興に向ける場合が多い。ヘンリもその類の人物だった。彼は政治のほぼ一切を官僚に丸投げしたのである。
キャサリンとの離婚交渉をカトリックに対して行ったトマス・ウルジー、対外貿易利権保護に動いたトマス・モア、議会を使って宗教改革を合法的に進めたトマス・クロムウェル。ヘンリの統治期に行われた政治行動のほぼ全てが、官僚らの手によって行使され、王はそれを上から監督しただけだ。その推論に至った時、私は日本のある為政者を思い出した。
この日本にかつて織田信長という英傑がいた。信長はヘンリが亡くなって3年後に生まれるのだが、両者にはある共通点がある。それは、「苛烈な印象を残した暴君じみた人物」という点だ。両者とも逆らう者は容赦なく処刑して、古い伝統を持つ宗教と、はたから見れば傍若無人な態度で向き合った(ヘンリの場合は事情が違うが)。
では、2人の差異は何か。それは「政治行動を直接為したか否か」である。
信長は為した。彼は、全盛期のほとんどの戦いで常在戦場を貫いた。信長は先頭に立って戦ったからこそ、室町幕府や大大名の反感をその身に受け、最後は部下・明智光秀の裏切りに倒れた。
一方のヘンリは、官僚に丸投げしたのである。宗教改革という、彼の統治の大一番でさえ議会に活路を見出したし、その実務的調整作業をクロムウェルに一任した。ヘンリはカーテンの内側に坐し、外に待機する官僚に要望を伝えて代理実行させた。だからこそ、トマス・モアやクロムウェルといった大法官は、ヘンリよりも恨まれるけっかとなったのだ。また、官僚らは政敵の足を引っ張ることで、王と政敵とを引き離し、派閥争いを勝ち残っていった。
信長はヘンリの持っていたような官僚制を築くことができたであろうか。信長の合理性は歴史が証明している。その合理性と彼の勢力を併せて考えれば、可能であったろう。この仕組みを使い、直臣に権限を委譲しさえすれば、信長自らが恨まれることは、かなり減ったはずだ。もっとも信長の性格からして、近代官僚機構の軸である精神的頂点にはなれなかったろうし(精神的頂点についてはまたの機会に説明したい)、戦国の風土は官僚制を受け付けなかったに違いない。
2016年3月20日日曜日
異質なイングランド
私は、ある一時期イングランドの歴史を、自分の興味が及ぶ範囲だけで調べてきた。中でも、特に重点を置いて調べてきたのは、テューダー朝2代目・ヘンリ8世(1491年-1547年)である。
テューダー朝というのは、30年に渡りイングランドで繰り広げられた王位継承内乱・バラ戦争(1455年-1485年)の果てに生まれた王朝である。ヘンリ8世は、その開祖・ヘンリ7世の二男として生まれた。私は、この2代目と絶対主義という政治概念の関連付けを調べてきた。
断っておくが、私は歴史学を専攻してきたわけではない。只、歴史というものに興味がある、純粋に趣味としての「研究」なのである。だから、専門家(もしくはその道に進み始めた人)にとっては、物足りないどころか論理的にも破綻した私見が、これからの記事の中に見られると思うが、お許しいただきたい。
さてそれでは、歴史―全般、細部問わず―について、これから書き記していきたい。
そもそも、ヘンリ8世に初めて興味を覚えたのは、高校の世界史の授業だった。彼が出てくるのは、宗教改革の節なのだが、ここではルターやカルヴァンが登場し、各自の持つ信仰に基づいて、ヨーロッパ最大の宗派・ローマカトリックと対立していく様が述べられている。
ヘンリはイングランド宗教改革の立役者として紹介されるが、ルターやカルヴァンと比べ、彼は異質だ。信仰とは無関係に見える政治的動機〈ローマ教皇からの主権獲得〉を叶えるために、改革を臣下に指示していく。それも、彼が改革を志向した根幹は、愛人と結婚するために妃と離婚したいとヘンリが考えた点にある。
この改革の異質性は、ひとえにそれが政治改革だったことにある。ヘンリが離婚を願っていたキャサリン・オブ・アラゴンは、神聖ローマ皇帝・カール5世の縁者であった。そしてカールは、離婚の成否を決定するローマ教皇を支配下に置いていた。即ち、ヘンリとキャサリンとの離婚は、カトリック教義上の問題以前に、ヨーロッパの政治上の問題として、不可能であったのだ。だからこそ、ヘンリは離婚成立をローマカトリックでなく、イングランド国内(議会)で成した。その結果として、後世はイングランド宗教改革を政治改革と見做すことになったのだ。
では何故イングランドの民は、この異質な宗教改革を受け入れたのか。その答えは、大きく分けて2つだ。まず、カトリックの腐敗に憤っていたためだ。当時の聖職者たちは、ルターが改革を志した要因にあるように、「贖宥状を買うことによって、罪は赦される」と民たちに告げ、その金で私腹を肥やしていた。イングランドでは、中産市民を中心に「反聖職者主義」が広まり、既成の宗教権威は最早畏敬の対象ではなくなっていた。だからこそ、ヘンリの宗教改革は全否定されることはなかったのである。
もう1つの答えは、イングランドが持つ地理的特徴にある。ローマを中心と考えた時、ブリタニア(イングランド)はヨーロッパの辺境に位置している。4世紀ごろには、ローマ帝国から伝播したキリスト教は、かの地に定着していたが、その後ローマ帝国の公的な影響力は減退していき、かの地独自の文化も含めながら、キリスト教は根付いていった。こうした独特な発展ができた理由は、ブリタニアがヨーロッパの辺境に位置していたからだ。ローマの直接的な統治を免れ得たからこそ、数世紀後には普遍的宗派であるカトリックから脱却する下地ができあがったのだ。言わば、ローマから見たブリテンという異質な土地ができあがったということになる。
異質な土地で起きた異質な改革は、国王の存在を神聖化する起点となった。これが無知な国王の「王権神授」理論に繋がってのである。
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